河北の名家・史氏の長子。大元の右丞相・史天沢の兄。 |
| 字は和甫。燕の永清出身。史秉直の長子。(1196〜1225) 1211年にモンゴル軍の金侵略が始まり、史一族もその動向に注目していた。 やがて投降した者は殺されないと知り、一族でモンゴルに付くことを決めた。 1213年秋、一族と里の者千人を連れ、モンゴルの重臣ムカリの軍門に降る。 河朔の名門であった史氏の投降は、周囲に与える影響も強く、一族は厚遇された。 天倪は父の秉直に代わり、万戸となり軍職につき、金から降った者達を統率した。 その軍の中心部隊は清楽軍といい、向かう所敵なしであった。 モンゴルの中軍に属し、ムカリ麾下として河北山東地方の攻略に向かう。 翌年、金の中都(燕京)包囲に加わり、その地でチンギス・ハァンに目通りする。 チンギスより金符を賜り、馬歩軍都統を授けられ、一挙24万戸を管領するようになる。 ムカリが遼西経略を命じられると、北京大定府(大寧)の攻略を進言した。 1215年春、北京を攻略し、史氏一族の根拠地となった。 真定が根拠地となるのは、1220年に天倪が河北西路兵馬都元帥となってからである。 1225年、金の降将で天倪の副官であった武仙の反乱により殺害された。享年29。 妻は程氏、子は5人。史楫、史権、他 元史に伝あり、147巻列伝第34 |
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