河北の名家・史氏。史氏の当主・史天倪、大元の右丞相・史天沢の族兄。 |
| 燕の永清出身。史懐徳の長子。史倫の次兄の系統で、曾孫にあたる。 1213年秋、一族の当主・史秉直に従い、モンゴルの重臣ムカリの軍門に降る。当時23歳。 都鎮撫に任じられ、降卒の長身武勇の者200名を領した。 清楽社より選抜した壮勇1万を率いて、父・懐徳と共に史天倪麾下の先鋒となった。 1214年、金の中都(燕京)包囲に加わり、チンギス・ハァンに目通りし、銀符を賜った。 一族総出の北京攻めで父を亡くすも、北京攻略に貢献した。 真定がモンゴル軍の領地になると、河北西路兵馬都元帥に任じられる。 史天倪が真定の守将となるも、ムカリ、ウイェルらは史天祥の方を買っていたらしい。 癸未、ムカリにより金虎符を賜り、蒙古漢軍兵馬都元帥を授かる。 1223年、目を負傷し一線を退き、一族の根拠地・北京に帰還した。 右副北京等七路兵馬都元帥、のち1232年、北京七路兵馬都元帥事。 モンケ・ハァン治世時に68才で亡くなった。 以下、史天祥の子供。 史彬:江東提刑按察副使。史槐:霸州御衣局人匠都達魯花赤。 長女はウイェルの孫に嫁ぎ、次女は完顔胡速の子に嫁いだ。 元史に伝あり、147巻列伝第34 |
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