行軍千戸・劉通の子。 |
| 東平斉河出身で劉通の子。父親の代から東平の有力漢人世侯・厳実に仕える。 劉通死後その職を継ぎ行軍千戸となり、厳氏の軍事活動において活躍した。 モンケ=ハァンの南宋親征では、東平の兵をまとめ参陣した四川・釣魚山攻めに参加し功をえた。 その功により徳州軍民総管を兼ねた。 フビライとアリクブカのハァン位争いが起きると、フビライの武衛軍徴集に応じ麾下に入る。 中統元年、アリクブカ放棄後のカラコルムを守り、帰還後に武衛軍副都指揮使に進んだ。 至元2年、左翼侍衛親軍副都指揮使、4年に右翼へ遷る。武衛軍=侍衛親軍 至元9年に昭勇大将軍、鳳州等処経略使、翌年日本侵略へ向けて征東左副都元帥となる。 元軍は敗れ、自身も少弐景資の長弓により重傷を負った。帰還後、降格処分となる。 至元12年、昭信路総管を授けられ、14年黄州宣慰使へ遷る。 至元15年、太平路総管、鎮国上将軍、淮西道宣慰使都元帥。20年、加奉国上将軍、3月死去。 以下、劉復亨の子供。 劉浩:千戸。劉沢:荊湖北道宣慰使。劉豊(さんずい):知長寧州。劉淵。劉淮。 元史に伝あり、152巻列伝第39劉通伝付録 |
『八幡愚童日記』 1274年10月20日、博多・息の浜にて 前線司令官であった少弐景資が元軍の大将を射った。 身長7尺、髭は臍までたれ、青い鎧を着た大将。 その大将こそ劉復亨であった。 |
|